親鸞 聖人。 親鸞聖人(しんらんしょうにん)の生涯・結婚しても救われる教えとは

「文明本」などでは、「像末五濁ノ世トナリテ 釋迦ノ遺敎カクレシム 彌陀ノ悲願ヒロマリテ 念佛往生サカリナリ」。

その慈鎮和尚を頼って、9歳で得度(とくど)を願い出られました。

その頃関東には、たくさんの弟子や信者を持っていた弁円という山伏がいました。

次々と『往生伝』が書かれ、日本中に極楽浄土を願う念仏の声が広がっていったのです。

これが世にいう「承元の法難」で仏教史上、類をみない弾圧事件でした。

比叡山を下山 親鸞聖人は、天台宗の教えの通り実行しようとされたのですが、現実には、お経を読んでいても、修行に打ち込んでおられても、あの美しい女性の顔が浮かび、苦しんでおられました。

小野宮禅念 - 覺信尼の後夫。

慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。

こうして親鸞聖人は、『 教行信証』全体にわたって、絶対の幸福に救われた世界とその喜びの体験を記された後、最後に『 教行信証』を書かれた目的を記されています。

それこそ、三宝に帰依する真実信心(無我なる我)による大乗 だいじよう 菩薩道 ぼさつどう であったと、私にはそのように思えてなりません。

(御文章) 親鸞聖人の一生涯教えて行かれた最も大事なポイントは、他力の信心一つである、ということです。

奈良の興福寺が、朝廷に念仏禁止を訴えている時、念仏教団にとって大変困ったことがおきてしまいました。

恵信尼…三善為教の子。

今日、親鸞聖人といえば『歎異鈔』を思い浮かべる人が少なくありませんが、『歎異鈔』は著者不明で、聖人がじかに書かれたものではありません。

そして、京都の四条大橋の上で、かつての比叡山の法友、聖覚法印にめぐりあい、吉水の上人にめぐりあわれました。

これは仏教に説かれる真実ですから反論できません。